広告=悪だという思い込みはやめませんか?日本人が広告を嫌いになってしまった理由と対策を考えてみた
日本人が広告を嫌いになってしまった理由
こんばんは。
みやしたんくです。
前回は広告の歴史についてまとめた記事を書きましたが、そもそもあれを書いたのは「広告ってなんでこんなに嫌われているの??」という疑問からでした。 ぼくはWeb制作の仕事をしていて、特に広告のプロというわけではないのですが、広告って嫌われすぎじゃね?と思うんです。
昨今のスマホでよくある、明らかに誤クリックを狙っている広告なんていうのは言語道断横断歩道です。あれはほんとに駆逐されればいいし、あんな広告を許している企業の担当者は頭と手足のみ露出した状態で身動きが取れない状態のボートにいれ、ハチミツやミルクを無理やり飲まされ下痢にさせた状態で、汚い池に放置されればいいと思っています。
※参照:スカフィズム(閲覧注意)
ぼくの小さな狭い世界では、広告が嫌われているといってもそのような「誰がみてもジャマな広告」が嫌われているんだと思っていました。
しかしこの件で意外だったのが「そもそも広告に対して嫌悪感をもっている人が結構多い」ということです。つまり表示方法がどうこうとかじゃなくて、「広告=悪(企業の都合の良いことしか言わないから)」と感じてる人が多いんですよね。
でも、一方で僕ら消費者が「広告だ!」と言う時点で過剰に避けていくというのも、悲しすぎると思うんですよね。
しかしこの記事でtoksatoさんが熱く語っているように、だからといって「広告=悪」とみなし、避けてしまうのはいかがなものでしょうか。
前回記事で書いたように、我々が豊かになるため、モノやサービスをたくさんの人に届けるため、広告は必須だったわけです。
みんな大好きインターネットだって、広告というビジネスモデルがなければ今のような便利なものになっていないはずなのです。悪いのはあくどい企業やその精神であって、広告そのものを嫌うのは筋が違うと感じるのです。
ということで今回は日本人が広告を嫌う理由を考察してみましたよ!
ちょっと長いんですがよろしくな!
結論から書きます。日本人が広告を嫌いになってしまったのはこの2つが大きな原因だと考えました。
1) 広告が単なる告知をするものから「コンテンツ」になった
2) 日本人は文化的に金儲けが嫌いである
それではそれぞれ詳しく説明します。
広告が単なる告知をするものから「コンテンツ」になった
一つ論文を紹介します。
こちらは社会学者で法政大学社会学部名誉教授でもある須藤春夫教授の論文です。 「広告と消費社会」というかなりアカデミックな文章ですが、広告に興味がある方はぜひ読んでみてほしい内容です。
社会の変遷によって広告がどういう役割を担ってきたのか
広告研究の方向性
広告が社会に与える影響
というようなことが書かれた論文です。
興味深いのがこの部分。
第1章で述べたように,国内総生産の一定程度を占める広告投下量は,広告主の意図とは別に,広告それ自体が一つの「社会的事実」として存在していることを意味しており,それは広告がコミュニケーション行為であるがゆえに,人々の意識にかかわるメディア性を有しているのである。しかし,広告はジャーナリズムやファインアートとも異なる独自のメディア性をもっている。
チョトムズカシヨ!ナニイッテルヨ!
広告がもつメディア性とは
ついつい片言になってしまいました。
広告がもつメディア性というものを理解するためにはこの論文にもあるように日本の広告の歴史を振り返る必要があります。
まず大きな転機は70年代です。
高度経済成長期を経て,基礎的耐久消費財(主に,電気洗濯機,電気掃除機,電気冷蔵庫,テレビなどの家電製品)はほぼ普及するが,70年代に入ると「ライフスタイルの提案」という日本独特の「夢」として現れる。
“モーレツからビューティフルへ”(富士ゼロックス・1970)
“金曜日はワインを買う日”(サントリーワイン1972)
“愛情はつらつ”(丸井・同)
“ああ,スポーツの空気だ”(伊勢丹・1979)
“女の時代”(西武百貨店・同)
ここに挙げた広告コピーには,商品の実体,特徴を示すメッセージはみられない。高度成長の終焉を意識させ,その後に到来する新たな社会の方向性と生活のあり方を見直す提案となっている。
このように70年代ころからある程度消費者の基本的な欲求は満たされたようで、新しいライフスタイルを提案する「欲望創出型」の広告が生まれ主流になっていきます。
さらに80年代になるとこんな変化が生まれます。
80年代に登場した市場細分化戦略はその代表的なものであり,広告のメディア性を考察する上で重要な位置を占めている。
市場の飽和化は「売り手市場」から「買い手市場」への転換をもたらすが,これは売り手が商品,サービス,広告などのマーケティング手法を駆使して消費者を操作すれば商品が売れたポッター的広告理解の時代が終わったことを意味している。消費者のニーズに合わせた多品種の品揃えと商品のライフサイクルを早めて目先を変える必要があった。広告もまた差異化を強調するものが主流となる。80年代初めに西武百貨店が連続して出した広告に,
“じぶん,新発見”(1980)“不思議,大好き”(1981)
“おいしい生活”(1982)
“うれしいね,サッちゃん”(1984)
がその代表例といえよう。
これらの広告コピーには,70年代の百貨店が打ち出した「ライフスタイル提案」のメッセージはない。80年代の広告コピーは総じて西武百貨店の広告に見られるように,一見しては何をメッセージとして伝えているのか不明なものが多く,「ライフスタイル提案」は影を潜める。
~中略~
広告メッセージが訴求しようとする商品やサービスの実体から遊離し,メッセージそのものの面白さや芸術性に依拠するようになれば,受け手の側では広告を一つの独立したメディアとして捉えようとする傾向が強くなる。広告がその本来目的とは別に,受け手の美的な感覚,遊戯の感覚などに対する精神的充足や対象との一体感を生みだす独自の表現メディアとして作用してしまうのである。
80年代は日本はバブル経済だったこともあり「広告の成果をちゃんと数字でだせ!」とか言われなかったという側面もあるかもしれませんが、80年代になるとこのように広告そのものがコンテンツとして認識されていったのです。
メディア性という言い方は少しわかりづらいので、誤解を恐れずに言えばエンタメ性と言い換えた方がわかりやすいかもしれません。
消費者は広告に何かしらの「面白さ」をもとめるようになったということです。
しかしそれだけでは広告が嫌われた理由にはなりませんよね。
そこにはもう一つ日本人の文化的要素が大きく絡みます。それが「嫌儲思想」です。
日本人は文化的に金儲けが嫌いである
日本流通学会という会でのこんな資料を見つけました。
社会学者、広告学者で神奈川大学教授である渋谷重光教授が語った、マーケティングとしての広告が江戸時代・戦時中・現代という3つの時代でどのように変化していったかという見解とそれに対する質疑応答を書き起こしたものです。
そこでこのように語られています。
「買いなさい」という言い方に対する蔑視のようなもの、つまり「商」の姿を明らかに出すということに対する蔑視が、昔から日本にはあったのだろうと思うのです。
商売というのは卑しいものだという"賎商思想"ですね。江戸時代の多くのビジネス書にも出てきますが、「商人は利益を取る。けしからん」とか、「商売というものは、もともといい加減だ。商人と屏風は曲がって立つ」とか、「商人はどうしようもない輩である」というようなことを、江戸時代から、武家出身の思想家たちがしきりに強調します。
江戸時代にもビジネス書があったんですね!という驚きはともかく、江戸時代からこんな発想があったのです。
しかし現代人は流石に「ビジネス=悪」とまでは思っていませんよね。
ほとんどの人が何かしらの大なり小なりビジネスをしていますし、働くことはむしろ素晴らしいことだという認識があると思います。
しかしどこかに「商売をする=金を儲ける=悪」というような「嫌儲思想」が残っていることは間違いありません。
「早くコンテンツになりたい!」と言いながら迫害される広告
広告というものは基本的には企業側がその商品やサービスを買ってほしくて出すものです。つまり商売そのものであるとも言えます。 必然的にその商売の太めの片棒を担いでいる「広告=悪」という認識がどこかに残っていても不思議ではありません。
しかし世の中にあるあらゆる広告がぼくたちがもっている「嫌儲」の対象にあたっているわけではありませんよね。
例えば駅のホームなんかにある「新しいゲームがでたよ!面白いよ!ダウンロードしてね!」という看板、よくありますよね。あれも広告ですがあれに対して「儲けようとしている!悪!即!斬!」という方はあまりいないと思います。
しかし「コンテンツ化した広告」だとぼくらは一つの作品として見てしまいます。テレビで言うと「ドラマ」に近づいているわけです。
ドラマの中で主人公が「この新しいゲームはおもしろいなーみんなダウンロードしたらいいのになー(字幕で絶賛配信中!)」って出てきたら、「儲けようとしている!牙突零式!」ってなるんですよ。
つまり今日本では「コンテンツ化した広告」が日本人の嫌儲センサーの対象になるという状況なのではないでしょうか。
ぼくらはコンテンツであるが故に「消費者のためのもの」という認識をもちます。実際上記したとおり、広告は消費者に寄り添った結果「コンテンツ化」していきました。
にも関わらず!コンテンツになった広告が「嫌儲」の対象になっているというなんとも皮肉な状況なのです。
まるで「早く人間になりたい!」と言って正義のために戦っているにも関わらず、時に迫害される妖怪人間ベムのような悲劇です。
こんな悲劇はもうやめませんか!
もちろん広告主である企業側も考えなければいけません。しかしぼくたち消費者側も考えるべきことはあるのではないでしょうか。
「清貧の思想」から「清豊の思想」へ
日本人は清貧の思想というものが大好きです。本来清貧の思想とは「お金やモノを貪らない物質的な豊かさを求めるのではなく、精神的な豊かさをもとめようじゃないか!」という思想です。
要するに「自分の理念に生きるために、あえて豊かな(モノであふれた)生活を拒否する」という思想です。
それが何故か我々日本人は「豊かになるためには、理念を捨てて汚れなければいけない」という考えになってしまっています。
清くて貧しい or 汚くて豊かの2軸しかないと思いこんでいないでしょうか。
なんとなくそう思いこんでいる人は多いと思いますが、実はそれには何の根拠もなく、いつの間にか日本人に刷り込まれている悪しき認識だと思います。
ぼくの尊敬する藤野英人さんという投資家の方の著書にこんなことが書いてあります。
・汚れてもいいので、お金持ちを目指す
・貧しくてもいいので、清らかさを目指す典型的に言えば、金儲けに大成功している企業やその経営者は前者であり、ベンチャー企業やNPO、NGOを立ち上げる人は後者だと思っているのです。
「清く豊かに生きることは可能であり、また"清豊"を目指すことが結果的に長期間にわたって会社を成長させることにつながる」
詳しくはぜひ書籍を読んでみてほしのですが、"清豊"でいいじゃない!ってぼくも強く思うんです。
SAY HO!!
…なんでもない!@サンシャイン池崎兄さん
これをお読みいただいているみなさんもお仕事をしてますよね?大なり小なりなにかしら社会に影響を与えてますよねきっと。
そうなると自分が働くことによってだれかに喜んでもらいたいですよね?いや自覚してなくてもですよ。喜ばれないよりは喜んでもらいたいはずなんです。
「そんな大それたこと考えてへんわ!自分がお金もらえればええねん!」
って人ももちろんいると思います。
それは全く否定することではありません。でも会社はあなたに給料を払うためにお金を稼がなければいけません。そのためには売上が必要ですよね。
なのになぜ企業が売上をあげようとする行為を嫌うことができるのでしょうか。 まあいいんですよ。感情として「嫌なもんは嫌だ!」って言うのであればそれはもうお好きにという話ではあります。
しかしその「自分がお金もらえればええねん!」はあなたがどこかに感じている「企業は自分のお金儲けのことしか考えていない!だから悪だ!」ということに思いっきりブーメランしてることは自覚していただければと思います。
消費者として正しい態度をとろう
広告にコンテンツとしてのエンタメ性を求めてしまっているぼくたちですが、たちの悪いことにその求めているものを満たしたからといって実際の消費にいたるわけではないというところです。
いやしょうがないんですよ。この不景気の世の中で、スズメの涙ほどの給料で、子供が1人いて、毎月お小遣い制でカツカツの状態なんですよ(あくまでぼく個人的な話です)。
そんな状態で80年代のようなエンタメ性の高い広告を見たところで、「さーてお金払っちゃおっ」と簡単にはならないですよね?
いいなーと思うCMの商品をどれだけの人が実際に購入しているのでしょうか。
しかし広告主は自分たちの目的を達成する必要があります。その消費者の求めているエンタメ性を満たしても実際の消費にいたるわけではないのであれば、そこを無視するのは必然です。
広告をただの「情報」だと捉えれば、世の中の看板なんかのようにぼくたちは必要がなければ無視をすればいいだけです。
しかし「コンテンツ」だと意識すると途端に自分たち消費者のためのものだ!と感じ、嫌儲センサーが発動します。
それは消費者側の態度としてあまりにも身勝手だと思います。
コンテンツは本来無料ではありません。それこそ広告というビジネスモデルのおかげで、色々なコンテンツを無料で享受できていますが、本来はそこには対価が必要です。
無料だったり、格安でコンテンツを提供できているこの広告というものにぼくたち消費者は「感謝」こそすれ、「悪」だという思い込みはやはり筋が違います。
広告に限らず、良いと思ったら「良い!」と声をあげましょう。そしてできれば消費でそれを示しましょう。 それが正しい消費者の態度ではないでしょうか。
ご意見おまちしております。
いかがでしょうか。以上がぼくが考える日本人が広告が嫌いになってしまった理由とその対策です。
もちろん自分たちの利益しか考えないで騙すような広告を出したりしている企業は論外であるという前提です。
異論反論ぜひおまちしております! (共感もうれしいですよ!)